新聞に別れを告げる日

新聞を一面から読むのが”おとな”のたしなみ

こどもの頃から長い間そんな風に刷り込まれていて、実際に「おとな」の年代に入ってからはそれを疑うこともなく無批判にそれを信じるようになっていた。
自分もじっくりと新聞を眺めるようになった・・・歳を重ねたのだなとしみじみ思う年頃である。

毎朝のかんたんセルフモーニングセットの後はお気に入りスペシャルティブレンドのドリップ珈琲を淹れてじっくりと新聞に目を通すことが習慣になった。といっても20分程度の斜め読みしかしないけど。😅
ムカシは自分の父親や親戚のおじさんたちなんかも(もっと長い時間をかけて)そうしていた。物心ついた頃からずっと記憶にある「おとなのルーティン」だった。
母親や親戚のおばさんたちがテレビ番組欄かせいぜい”三面記事(死語かな)”しか見ていなかったのも同じ。
当時を今思い出したら、例外的にひとりだけ丹念に新聞を読む知的(!)なおばさんはいたけど。
思春期の少し視野が広がりかけた頃に、”識者”とされる人の「新聞は複数紙読まないと真実が分からない」という意見にもうんうんとひとりでうなづいていたりした。
新聞社によっては同じ出来事に関しても書かれ方がまるで違うという事実をたびたび感じていたから、その当時は「さすがえらい人の考えることはちがうなぁ」と感心していた。その影響は少しあって、親に頼んで数年置きくらいに新聞社を代えてもらっていた。といっても毎日・朝日・読売だけのローテーションだったが。
産経は硬派と軟派の記事が混在している中途半端なイメージで関心がなかったな。

情報の鮮度だけをとっても新聞の価値はほとんどなくなった

今の自分としては「新聞えらい」と信じていたことを苦笑するしかないが、ネットニュースやネットTV(YouTube)の硬派のコンテンツを当たり前のように日常的にみる生活になってから、特に1年前くらいから「新聞記事だけ読んでたら決して真実は分からない」という事実を強く意識するようになった。
元々TVは即時性以外には作為的で底が浅く情報源として信用しておらず論外だった。
しかし、そのようにうそぶきつつ新聞購読をやめなかったのは習慣という惰性だけではない。

新聞購読の魅力は近所のスーパーなどのチラシである

と言い切ってしまおう。休日前などは新聞本体以上のボリュームになり、新聞にチラシが付いてくるのかチラシに新聞も付いてくるのか分からんカオス状態になる時もありそれがけっこう楽しみなのである。

ネットで最新のローカルチラシを見れるようになったことなんてとっくに分かってるとはいえ、PCやタブレットの画面と実物のチラシでは圧倒的に情報量が違う。これは新聞も同じやな。
いや、正確には情報量は同じでも一瞥して視界に入る量という意味のことですよ。
もちろんスーパーに限らない。ファッション・電機製品・クルマ・通販・葬儀社😅 等々のそれぞれに趣向を凝らした生活分野の新鮮でカラフルで様々な”お得な”情報を気楽に一瞥(ブラウズやな)出来るのがチラシの魅力。
もちろん一瞥で済むので20部以上あってもせいぜい10分程度眺めておしまい。

今の自分にはもはや偏った情報の羅列に過ぎないと感じるようになった新聞には何の未練もないので、5月末の契約更新で完全に新聞から縁を切ると決めている。経済的理由ではない。熾烈な新聞配達業界で豪華な景品は廃止されたが、その代わりに信じがたいようなベンキョー価格となっている。ほぼ半値である。
もはや契約の有無は生活経済に影響しないレベルなのだが断捨離することにした。

チラシ広告に未練はあるが・・・

ところで、なかなかやめられなかった理由はもうひとつある。時折訪ねて愛想を尽くしてくれる新聞販売店のおじさんの存在である。戸建てなので気軽に玄関先まで入って来れるのだ。
しかしワイフは訪問を敬遠するどころかそれを逆手に取って悪魔のようなベンキョー(値引き)を要求するのだ。最初は2割引程度だったのが今では半値にまでなったのだから恐るべしである。
とうとう今以上の値引きが期待できなくなってからはインターホン越しに最低限の応対で済ませるようになっている。ホンマに怖いぜ。
そこまで値引きしてどうやって利益が出せるのだろうかと同情はしつつ、解約を決めたのは自分自身なのだ。
物心ついてからこれまで新聞のない生活なんて考えもしなかったので不安はある。古新聞というのも日常生活で意外と使い道があるようなのでそれがなくなるという不便も生じる。
いや必要と感じたらいつでも再開出来るのだし、やっぱり断捨離で解約。😅

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